2010年01月30日

ハイチ地震レポート No.19

 当NGO「CODE」から派遣したクワテモックは、首都から40qほど離れたレオガンに入り、早速援助の届きにくい被災者を優先的に支援すべき具体的な実態把握をはじめました。ただ、通信事情はよくないので、現地レポートも途切れ途切れになるかも知れませんが、根気よく見守って下さることをお願い致します。

 一部の報道では、現地での混乱の様子が伝えられ、さも被災地全土が混乱しているのかと錯覚を起こしかねますが、繰り返し当レポートでお伝えしているように、被災地では多くのボランティアが活動しており、また被災者自身は相互に支えあっているようです。まさに「自助」と「共助」の姿です。ほんとに、15年前の阪神・淡路大震災を思い出します。丁度、阪神・淡路大震災後に被災地でも何度も取材された時事通信ワシントン特派員のA.A.さんの取材体験記がインターネットで紹介されていますので、その一部を紹介させて頂きます。

*「略奪行為が各地で見られるようになり、治安悪化の懸念はくすぶるが、大多数の人は。驚くほどの平静を保ち、困難の時をじっと耐えている。ハイチの人の忍耐強さには感銘を受けた。混沌の中で、市民は懸命に日常を取り戻そうとしているかのように見える。 」(1月16日)

*「今回の取材ではジャーナリストということで、意外なほど援助関係者や地元住民から歓迎され、協力を受けた。緊急事態の中、誰もが厳しい状況下で自分の仕事を全うしている。」「みんなが同じ船に乗っている」と言ったのは誰だったか。ジャーナリスト同士もそうだが、どこに行っても強い連帯感を感じることができて励まされた。(1月19日)
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2010年01月29日

ハイチ地震レポートNo.18

ハイチの被災地に入ったクワテモックさんから現地の情報が入りました。JICAの緊急援助隊や国境なき医師団の入っているレオガン(LEOGANE)にいるそうです。
下記のように余りにも甚大な被害を目の当たりにして支援の必要性からクワテモックさんは滞在の延長を訴えてきました。

(現地時間1月28日9:40、日本時間1月29日2:40のメール)
皆さんは想像できないと思いますが、ここレオガンでは物資も同様ですが、インターネットにアクセスするのが非常に大変です。交通は悪夢のようで、インターネットもホテルもレストランも何もありません。私は倒壊した病院に寝泊まりしています。それはレオガンのCardinal Leger 病院です。震央に近いところです。90〜95%が破壊されています。ポルトープランスにはほとんどの国際援助団体が入っているので、私はここレオガンを活動の地として選びました。私は、ドミニカのNGOや地元の人々にサポートされています。
 私はたった一滴の水さえ届いていないような小さなコミュニティに行こうと調整しています。
 私は、スラムの高齢者や子供のケアをしている地元の社会組織と一緒に再建のアイデアを考えようと思っています。
 2日以内にはポルトープランスに行き、ラジオで話してCODEのメッセージを多くのところに広めてくるつもりです。明日はここレオガンでもラジオで同様に動きます。
写真はインターネットにアクセスできる時に、追って送ります。
ハイチの人々から大変暖かい感謝と恵みと挨拶を受けています。 
クワテモック

*昨日、Twitterに以下のような暖かいメッセージがありました。これをクレオール語にしてクワテモックさんを通じて現地の人々に届けます。

ハイチ地震の甚大な被害と犠牲者の報道に心が痛みます。この地上に生きる同じ一人の人間として、ハイチの皆さまの涙と悲しみを共有し、遠い日本の地からではありますが、応援の気持ちを送ります、明けない夜はありません、明日のために手をとりあいましょう。(京都・SAKI)
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2010年01月27日

ハイチ地震レポートNo.17

レポートNO14でSAJ(戦略・行動・若さ)という赤いポロシャツを着たボランティア達が立ち上がった話しをしたが、新たなボランティア達も動き出した。

 黄色いTシャツと帽子を身にまとい、救援物資の配布の手伝いや避難キャンプの清掃をする彼らは、ボランティア団体「市民アクション」の若者たちで、「皆が被災者なのだから助け合う事が必要だ。」と汗を流す。彼らは震災前から社会奉仕活動をしていたが、この大地震で彼らのほとんども被災者となり、現在も屋外での避難生活を送っている。
 レポート16の岡さんの文章の中にも「ここはハイチ。自分達の国だ。ハイチは自分達で変えていかなければならない。」というハイチ人の話がある。まさにこの若者たちの動きはハイチ人らしさを表したものだろう。

 15年前の阪神・淡路大震災の直後、1か月で約62万人のボランティアが被災地に駆けつけた。そのうちの7割は初心者ボランティアであった。その彼ら、彼女らが被災地の復興の大きな力になった。国連やNGOは、今、ハイチで動き始めたハイチ人自身のボランティアをもっともっと信頼して、彼らのエネルギーをうまく使うべきであろう。岡さんはハイチをこう言う。「国民のほとんどは子供・若者です。エネルギーいっぱいの国です。」
ボランティア「市民アクション」の黄色いTシャツには胸にクレオール語で「きずな」と書かれてある。
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ハイチ地震レポートNo.16

NO13で関西在住のハイチ人「ChaCha(シャシャ)」の素晴らしいメッセージをご紹介しましたが、今度はChaChaさんの奥さんである岡智子さんからもハイチ人気質のよくわかるメッセージが来ましたのでご紹介します。

ハイチや主人のことを想っていただきまして、本当にありがとうございます。現地人による支援活動の記事を拝見しました。
「これぞハイチ人。ハイチの強さを取り戻した!!」というのが私の率直な感想であります。

あくまでも私見ですが、ハイチの人は、どちらかといえば単独ではなく他の人と一緒に動くのが習慣です。
これを現地ではCombit(コンビット:協働)と言います。
そして歴史にも残るように、ハイチは黒人が独立を勝ち取った初の国家であり、彼らには金や物は何もなくても、希望がありハイチ人という誇りがあります。
心身ともに強い人たちです。(しかし、今回の地震ではかなり弱っていると思われます。)

以前から、ハイチは不安定な国でした。
国民の多くは貧しさから抜け出せず、若者たちはみなぎるエネルギーをもてあまして、人を支援するグループをよく結成して活動していました。
でもやりたいことはたくさんあるのに、いつも資金や物がないということで、活動できなかったグループが多くありました。

ハイチの人と話をしていると、
「ここはハイチ。自分たちの国だ。ハイチは自分たちで変えていかなければならない。」
と言う人がいます。

私もできるだけ地元の人たちの内に秘めたる+のエネルギーを突き動かし、彼らによる助け合いの支援ができるように、援助できればと思います。

国民のほとんどは子供・若者です。エネルギーいっぱいの国です。

                                 岡智子

*CODEの海外研究員のクワテモックさんがハイチに入りました。首都ポルトープランスの西約40kmのLEOGANE(レオガン)にいるようです。追ってレポートを紹介します。
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2010年01月26日

ハイチ地震レポートNo.15

 日本政府は、国連平和維持活動協力法にもとづき、人道復興支援目的で自衛隊を派遣する方針を決めたようです。鳩山首相は記者団に「がれきを撤去して、住宅などを建てる仕事がある。いわゆる工兵の人たちに行っていただこうと考えている」と言いました。
 被災者に瓦礫の片づけをして貰って、工賃を払うというプロジェクトを日本のNGOが過去の被災地で展開しているのをご存じなのだろうか?また、貧困者の住宅を建てるというNGOもあり、この被災地KOBEの大学生などもこれまでに積極的に参加してきたことをご存じだろうか?

 首都では、一部銀行が再会し、また商店などもオープンし、路上では活気よくバザールも展開されているようです。災害発生からまだ2週間しか経っていないのに、被災地ハイチの街は、蘇りつつあることが伝わってきます。
 これからは本格的に住宅の再建を考え、地域の経済の活性化を考え、まず人々の暮らしの再建を優先的に考えていかなければならないステージに入ろうとしています。この段階だからこそ、国連は積極的にNGOと連携して多彩な支援メニューを展開して欲しいものです。過去の事例からすると、日本のNGOは欧米のNGOに比べて資金力が乏しいので、それだけに智恵を出して「痒いところに手が届く」ような活動が提案できます。鳩山首相は是非、そこのところに注目して欲しいものです。

 すでにいち早く現地で緊急援助活動をしているピースウィンズ・ジャパンの現地レポートを見ると、「暴動は起きていない。給水車には順番待ちの列ができていて、それなりに秩序はある。炊き出しに群がる人も最初はごちゃごちゃしていたが、子ども→女性→男性という順番で受け取っていた。」とあり、また「夜になると停電で市内は真っ暗。外で生活している住民が静かに歌っている声が聞こえ、歌詞は宗教的な内容らしく、互いに励まし合っているようだ。」と報告されている。(http://www.peace-winds.org/jp/act/haiti.html
 こうした目線で被災者に寄り添える感覚は、結局阪神・淡路大震災からの15年という年月が築き上げて来たのではないかと思えます。
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